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OUTLINE

歴史

創立、文久3年。
蘭学・航海術をルーツに
幾多の傑物を輩出。

江戸時代の攻玉社

現在は、東京都内の中高一貫の進学校として実績のある攻玉社ですが、
その歴史は150年を超える由緒ある学校です。
創立は文久3年(1863年)。数学・オランダ語・航海術などを教授する蘭学塾「攻玉塾」として開設されました。時は江戸時代後期。京都で新選組が結成された年にあたります。
まさしく歴史の転換点となる重要な時期に、外国の知識・技術を取り入れ、次代を担う人材を育てるための教育の場として歩み始めました。
創立当初の攻玉塾は理数系の塾として、福沢諭吉の慶應義塾、中村正直の同人社とともに東京の三大義塾の一つに数えられました。 「攻玉」とは、詩経の「他山の石以て玉を攻(みが)くべし」から引用したもので、これが本校の建学の精神です。

創立者 近藤真琴先生は、
明治六大教育者の一人。
創立者・近藤真琴先生 攻玉社を創立したのは、福沢諭吉・新島襄・中村正直らと並び明治六大教育者の一人とされる近藤真琴先生(1831 – 1886) です。
幕末の動乱期にいち早く時勢を見抜いてオランダ語を学び、西洋近代の学問や技術に熟達。日本で最初のかな書き辞書「ことばのその」や、翻訳SF小説の第1号「新未来記」は先生の手になるもので、先生としての幅広い活躍の一端がうかがわれます。先生の没後に、攻玉社の教育理念は、二代目の基樹先生や三代目の雅樹先生、弟子たちにより引き継がれました。

近藤真琴先生
攻玉社建学の理念

近藤先生の手による日本で最初のかな書き辞書『ことばのその』は今も当校の資料室に保管されています。

本校からは、近代日本へと発展する原動力となった幾多の人材が巣立ちました。太平洋戦争の終戦時に総理大臣をつとめた鈴木貫太郎もその一人です。
関東大震災後の不動ヶ丘への移転、経済不況の中での経営改革など、その都度、時代の大きな困難を乗り越えて教育体制の整備を実現できたのは、その底流に「攻玉社」の伝統と近藤先生の建学の理念が脈々と生きていたからです。

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攻玉社のあゆみ

1863年(文久3年)

江戸四ッ谷坂町鳥羽藩邸内に蘭学塾を開く。創立者、近藤真琴(こんどう・まこと)は数学・航海術・測量術に秀でた蘭学者であった。

1869年(明治2年)

真琴、兵部省に出仕。築地海軍操練所(のちの海軍兵学校)内に塾を移す。塾名を「攻玉塾」とする。

1871年(明治4年)

芝新銭座(今の浜松町)の慶應義塾跡へ移転。学科は航海術・測量術・和・漢・英・蘭・数学が設定された。

1872年(明治5年)

文部省より学制が頒布され、私塾から学校として、あらためて開学した。学校の内容は塾則が定められるとともに、幼年科の設置、教育課程の確立等、全般にわたって近代的に充実・整備される。なお、現在の校訓は、この塾則をもとにしたものである。

1875年(明治8年)

わが国最初の航海測量習練所(商船学校)を設置。

1889年(明治22年)

海軍を志願する者のために海軍予備科を設置。

1925年(大正14年)

海軍予備科を海軍中学校と改称、のちに尋常中学校に合併する。9月芝新銭座から、品川区西五反田の現在地に校舎を新築して移転。丘上にそそり立つ白亜の鉄筋コンクリートの校舎が生徒たちの新しい人間形成の場となる。

1947年(昭和22年)

学制改革により、新制攻玉社中学校発足。

1948年(昭和23年)

新制攻玉社高等学校発足。

1966年(昭和41年)

6年一貫英才開発教育を始める。

1990年(平成2年)

国際学級開設。

1995年(平成7年)

特別教室を収容する中層棟 (現2号館)完成。

2003年(平成15年)

新校舎(1号館)完成。

2010年(平成22年)

5・6年次のクラスを8クラス編成とする。

2015年(平成27年)

併設型中高一貫教育校に移行。

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●卒業生総数:62,629名
・中学(昭和22年~令和4年3月):45,282名
・高校(昭和23年~令和4年3月):17,347名